結局はそうなのか
いつもへこむたびに人間なんてもともと大したもんじゃないというところから始めようと思う。
いつもそこからのスタートが理想であってそこからならばどんなことをしても何かしら積み上がっていくもんだと思う。
ただ、頭で理解するのと腑に落ちるというのは少し違っていて、スタート地点を変えるということはそもそもある部分では今まで否定していたものを肯定しなければならないということになる。それがなかなか難しい。
特に否定することで得意となっていた部分があるとすると、それを肯定することは二重に難しくなる。
そういうのをうまいことごまかしながらやってきたが、そろそろ全面的にいろんなものを肯定してもいいんじゃないかと思う。ただ今まで否定していたそれらもろもろを肯定することは間違いなく物事を考える切り口が変わるわけで、そうなるとやはりゴールまでどういう展開でやっていくのかということも変わってきて、結局スタートからゴールまでの過程ほとんどが変わってしまうのではないかと不安になる。それはもうある意味言語が変わってしまうぐらいの変化であると思う。
でもそろそろゆとりとか肯定とか丸みを帯びたものをうまい具合にブレンドしてやらなければいけないと思う。ハイブリッドとかブレンドってあんまり好きな言葉じゃないけど、そろそろしんどい。
人間のいろんな絶対量というものは決まっていて、その中でどういう配分でやっていくのかっていうところのその配分を少し変えないといけないのではないのだろうか。これはもう過去の自分に対するギブアップなのであるが、本当にギブアップできるのであろうか?
うまく切り抜けられる解釈はないのだろうか。
コーヒーって凄いな
久しぶりにブログを開いた。ブログのデザインすら忘れていた。
ここ一年で、数学やら物理やら工学やらと深いお付き合いをしていて、文章の方とはかなり疎遠。
大阪に置き去りにしてきたみたいだ。
それでも、思考の方はいろいろ進んで、いろいろこんがらがってたものがどんどんシンプルになってきて、
いよいよ公式化し始めている。朝早く起きたかったら、夜早く寝れば良いみたいに。
良いのか悪いのかって、公式に当てはめれば考える必要がないのだから楽ではあるが、
明日の朝が早くても、夜更かししていた昔が懐かしい。というか少しうらやましい。
何かを成し遂げるには良いかもしれないが、何かを感じるにはあまりにもお粗末な状況。
クラウドコンピューティングと夕暮れの喫茶店。
ものすごく家庭的な文章
壁っていうのは、物心ついた時から何となくそこにあって
積み木を組み立てていても、カブトムシを探しに出かけても、日が暮れれば家に帰るように、壁を見つけたら当たり前のように折り返していた
でも、本人は壁があるから折り返してるんじゃなくて、あくまでも日が暮れたから家に帰る感覚でいる
それはいつになっても変わらなくて、勉強をしていても、部活をしていても、壁を見つけたら越えようとせずに引き返していた、だって家の味噌汁はいい出汁がでてるから
ただ一つだけ変わることは、守護霊みたいだったその壁がだんだんはっきり見えるようになってくる
じゃんけんで、相手が3回連続グーを出してきたら、こいつはグーしか出さないんじゃないかって思うみたいに
そして、いつの間にかその壁が、寝床で飛び交う蚊みたいに、少々目障りになってくる
たぶん、自分は今そんな状況だ
これから、夜中にわざわざコンビニにキンチョールを買いに行くのか、諦めて、顔の形が変わるのを覚悟してだんまりを決め込むか、選択しなければならない
畜生、この壁が冷蔵庫のドアみたいにザパっと開いてくれたらいいのに
時代の変わり目
[日記]チャリ的ビフォーアアフター
今日、ママチャリの時代が終わった気がした。
クロスバイクにまたがって、京都は道が広くて走りやすいぜい、と一人悦に浸りながら信号待ちをしているときに、そんな風に思ったのである。特に劇的な瞬間でもなかったのだが、これまで感じていた違和感が、ウミガメが卵を産む時みたいに、ぷりっと形になって結実した。
よくよく考えてみれば、時代の変わり方には、2通りあると思う。政権交代とか、よくできた推理小説のように、一瞬にして、それでいて劇的に変わること。もうひとつは、インターネットの普及とか、毎日肌に塗る化粧水のように、徐々に変化していくが、その前後で明らかに差があるものである。
この場合ママチャリの政権交代は、後者にあたる。電動自転車、折りたたみ自転車、クロスバイクが徐々に街中に普及していく中で、ママチャリ搭乗率が相対的に減少してしまったのだ。
そんなことを思いながらジワジワとくる変化を読む力って大事やんな〜って思うのである。島田紳助が言っていたのだが、売れ続ける芸人というのは、X+Yで物事を考えているという。Xが自分が持っている武器で、Yが世の中の流れ。Yを読みながら、Xを調節すると常に高い値が期待できるというわけだ。一発屋というのは、自分が持っているXにたまたまYがやってきて売れてるだけなのだという。
確かに、明石家さんまは、つい数年前はギャグを連発していたが今は全くギャグをやらない。彼も世の中の流れに合わせて芸を調節してるから売れ続けているのだろう。
劇的な変化に同調するのでは、わかりやすすぎて、逆に嫌悪感を増長する。だから、ジワジワくる変化を読んで、したたかに生きたいものである。って簡単にできれば、みんな金持ちになれるんだが。
頑張るって何?
だいたい,「無理なんて思ってないし」,何て思った時点で,心の奥底では,「もう無理やって」思ってしまってたりするし,「頑張ろう」とか,「やってやろう」とか思った時点で,あんまり頑張れていない自分に苛立ってたり,本来の自分はこんなんじゃないから,何て自分に言い聞かせている,とどのつまり,一見前向きに思える言葉が,実は自己保身の鏡であったりする.
だいたい,思ってることと思いたいこととの境界は,思ってる以上にあいまいだから,案外他人に分析してもらう方が的を射ていたりする.
だから,「頑張ろう」にも2種類あって,そういう自己保身すらも改善してやろうという,そもそものスタートから苦労を前提とした上の「頑張ろう」と,とりあえずの「頑張ろう」である.
そして,前者の「頑張ろう」は,100%前向きな人間になるための結構な人格改造であって,容易くできるものではないし,とりあえずの「頑張ろう」は,余計自分を惨めにしてしまう.
とどのつまり,「頑張ろう」とか「無理じゃない」いう言葉はなかなかの眉唾ものである.というか,頑張ってる人は,そもそも「頑張ろう」何て言わない.何て考え出すと,「頑張ろう」という言葉自体がうさんくさく感じるが,ここまでひねくれた思考を展開する自分がうさんくさくも感じる.
そもそも,絶対的な言葉,絶対的な人間なんていないから,勢いで言った「頑張ろう」に深い意味なんてないんだろうけども,酒を飲んだ夜は,いつもより,自分が絶対になった気がする・・.