文章を書くとは

今日は、大学入学時ぐらいから尊敬する人とたぶん1年ぶりぐらいに大学で出会った。
相変わらず、快活で、ワーッと捲し立てられたから、相づちを打つのがやっとだった。

でも、考えさせられた。その後しばらく、沈思黙考させられた。

それは「何故新聞記者を目指しているのか」ということをだ。

本心は「ただ文章を書いて飯を食っていきたい」ただそれだけのことだ。

じゃあ、「作家になればいいじゃないか」

そうだ。でも、「作家には、ある意味では、説得力がない」。人に何かを伝える方法というのは二通りあって、主観的に物事を掘り下げて伝える場合と、客観的なデータや情報を基に伝える場合があると思う。作家は前者で、新聞は後者だ。しかし、最近感じるのは、その中間があってもいいんじゃないかということ。作家には、学問的なバックグラウンドや客観的説得力にかける。いくら、心に響く手法で「地球温暖化が危ない」といわれても、温暖化の具体的な概要がつかめない。新聞がいくら「2050年には、海抜が1メートル上昇する」と言っても、心に響かず、危機感を抱けない。その中間的な手法で人に何かを伝えることはできないだろうかと思う。
新聞記事は定型文だ。でも、文の構成をきめるのは執筆者だ、書くネタを決めるのは執筆者だ。そういった意味で、中間的な手法をとることは可能だと思う。
これまでのサークルの活動で、事故の遺族や震災の被災者また、ボランティアに携わる人々の話を伺わせていただいた。
亡くなった息子のために、毅然とした態度で世間に問題点を訴えている人がいる。その人は言った「これから、一生をかけて戦っていく」。被災者の健康状態を把握するために、一日も欠かさず仮説住宅の全世帯を巡回している人がいる。阪神・淡路大震災から13年間ボランティアに携わっている人が言う「震災時の悲惨な状況で、ボランティアをしている人々の表情が良かった。ああいった表情で、暮らせる社会になってほしい」。世の中には、こんなにも優しさがあるものなんだと実感した。

そして、綺麗事かもしれないけれど、思う。このような優しさを伝えていくことで、もっと、暮らしやすい社会になって欲しいと。世の中そんなに単純じゃない。二律背反で成立することなんてまずない。でも、その中で、人の心が少しでも良い方向に向いてくれたらなと思う。そういうことを伝えていきたいと思う。複雑で、客観的で、でも何か心に響く。まあ、本心はただ書きたいだけなのかもしれないけど。