町田康はずるい

町田康著の「耳そぎ饅頭」を読んだ。本書は、自称売れないパンク歌手の町田康が、貧乏から脱するため、その原因となっている偏屈さを改善しようとするエッセイ集だ。CDが売れないのは、世間に出ることなく、自宅で、読書と思索に耽ってばかりいるからだと決めつけ、町田自身が、旅行や、テーマパークに出かけ、一般人の生活というのを再認識していく。どのエッセイも、冒頭は、正月の定例行事や旅行などを、無知蒙昧の凡人が行う愚行と決め付けている町田自身が、CDが売れるために仕方なしに一念発起、下界へと下っていくのである。しかし、中盤で、予想に反して、これまで卑下していた定例行事、下界での生活が有意義であることに気づく。そして、それらの有用性を知ることで偏屈さが治ったのだから、CDも売れるはずだと安堵するも、結局、印税収入が伸びることはないというおちである。

どうも、町田康の偏屈さは、自分に似ているところがあると感じた。例えば、正月の年賀状のことを、町田康は、「あんなものは、虚礼に過ぎぬ、世間の阿呆はただでさえ忙しい師走になんで、あんなものを書くのだ、馬鹿ばかしい」とうそぶく一方、元旦に知人友人から年賀状が一通も届かないことを、「寂しい、実に寂しい」と嘆いている。まさに自分も毎年思うことである。大した理由もなくただ流行に従っている人々やもはや有用性を失った慣習を頑なに卑下し、拒む一方で、その実自身がないがしろにされることにひどく臆病である。これを偏屈と言わずに何と言う。

しかし、町田康が秀逸なのは、そのような偏屈さをストーリー性というユーモアにうまく調和させているところだ。このエッセイで町田康が最も伝えたいのは、この偏屈さの哲学、当たり前の物事を当たり前の物事として享受しない哲学である。その目的を達成するために、町田康は、凡庸さの有用性を認めていく姿を描いた。読者に、「心身に染み付いた町田康の偏屈さが、少しばかり他人に説得されたぐらいで治るわけないだろう」という疑念を抱かせるよう、描かれる自身の姿に非現実的な落ち度を持たせることを忘れずに。それによって、町田康は、非現実感と現実感、つまり、凡庸さと偏屈さを一つのストーリーに共存させ、常に相対的に凡庸さを卑下しているのである。


以上のように、ストーリーに厚みを持たせることで、偏屈さを惜しみなく出し切っているにもかかわらず、エッセイが終始ユーモア溢れる文章になる。これは、驚くべき技術。是非見習いたいと思いつつ、二番煎じはどうもなあと渋ってしまうのも事実である。


耳そぎ饅頭 (講談社文庫)

耳そぎ饅頭 (講談社文庫)