サラリーマン

今日は個人的に激動だった。理想の一日は、公演でビール片手に本をパラパラめくり、時折、隣のブランコで遊ぶ子どもたちを見て微笑むという、牧歌的なものである。しかし、今日は朝からコンサルティング会社の2次面接と昼からは新聞社の説明会があり、終日スーツを着ていたため、どっと疲れた。というか考えさせられた。
昼に梅田のオフィス街のカフェの、外の界隈が一望できる席で昼食をとっていた。僕は内外にサラリーマンがはびこっている状況で、昼食をとることに馴れていないため、いつもの挙動不審で、きょろきょろしながら食べていた。そこで、ふと目にとまったのが、僕の隣で、陰鬱そうな表情で煙草を吸っている中年のサラリーマンである。


外回りの休憩中なのだろうか、コーヒーカップを両手で包み、何か思いつめるような表情で、外の界隈を眺めている。煙草を吸う動作も緩慢だ。
なるべく見ないようにしながらも、僕の意識はそのサラリーマンに傾注していた。


しばらくして、正月に父が絞り出すようにこぼした言葉を思い出した。「やっと勤続25年か」と。僕はそのとき始めて、これまで厳格だった父の弱音を聞いた。25年蓄積した父の鬱憤を聞いた。


そして、思った。少なくとも1年から3年以内に自分は、就職し、サラリーマンとなる。1年目、2年目は、新しく吸収することが多く、その分大変でもあるが、自身の成長や成果に満足し、充実した生活を送るだろう。しかし、それが、10年、20年経つとどうなるのだろうか。毎日同じ職場で仕事をこなすことに不満や喜びや怒りを感じることなく、ただただ、生活するために働くのだろうか。会社内での上司としての立場や家庭内での大黒柱としての立場、そういった外的要因からしか、働くという意味を見つけ出せなくなるのだろうか。


今、それを嫌悪することは簡単だ。誰だって、そうはありたくないと思うはずだ。問題は、10年後、20年後もその気持ちを抱き続けられるかということだ。


そう考えてみると僕には、自信がない。僕は、これまでの21年間を振り返ってみても、革命的信念に欠けている。流れを強く疑問に思いながらも、流れに逆らわずに生きてきた。飛び込み台の先端まで進むが、最後のジャンプができなかった。飛んでみれば、これまでの苦悩から解放されて、流麗な演技ができることをわかっていながらも、最後で泣き寝入りしてきた。


何故なのだろうか。おそらく自身の陳腐な虚栄心やら自尊心とやらが、ジャンプして、醜態を演ずることを拒んでいるからだろう。本当に自分は偏屈で、矮小だと思う。


しかし、幸いにも、僕は今、再度飛び込み台の先端に進もうとしている。これまで、他人の言葉や自分の言葉で、何とかここまで、自分を誘導してきた。しかし、最後にジャンプするのは、自分の意志だ。なげやりでも、寝起きでも、酔った勢いでもいい。けれど、それは自分の意志でなければならない。


隣のサラリーマンが、緩慢な動作で席を立ち、店を出て、陰鬱な表情のまま往来へ出ていった。それにつられて、僕も席を立った。