アルバイト

今日はテスト勉強をしつつ、一日思索に耽った。こういう日が一週間ぐらい続いて欲しい。


まず、アルバイトについて真剣に考えていた。アルバイトなんて、脳を一ミリも使わずにできることについて何故真剣に考えなければいけないのか。何故なら金がないからだ。ないことはないが、遊ぶ金がない。もうすぐ春休みだけど、おそらく海外はもとより、スノボーに行く金もない。行く時間もないかもしれないが、できたら青春18切符で日本を巡ったり、少しは羽を伸ばしたい。


では、何故金がないか。それは、アルバイトをしていないからだ。というか、する気がないからだ。アルバイトのような単純労働をする暇があったら、質素倹約してでも、読書や執筆や思索の時間に充てたいというのが本音だからだ。アルバイトでも得るものはあるとは思うが、想像の範疇にあるため、なかなか魅力を感じない。常識知らずの客との対応、昔は無茶して生きてきたと豪語する店長の話、どれも月並みだ・・・。一方、読書をすると、著者の命を賭した思索の集積として明文化された文章に感化され、靄のように曖昧に感じていたものが、はっきりと輪郭を露にし、意識の中に定着する。これほど、探究心が満たされることはない。


と、ここまで書いてきてやっぱり自分は偏屈ということを再認識してしまい、自己嫌悪に陥ってしまう。だから、アルバイトの明るい話。


僕は、去年の夏休み、甲子園でアルバイトをした。甲子園の売り子とは違って、カメラさんの使い走りだ。一試合にメモリーカードをバックネット裏から外野まで5、6回走る。汗だくになり、何で、夏休みの一日中アルバイトをしてないとだめだんだろうと疑問に思うことはあっても、それでも、カメラさんとは爽やかに接しなければいけない。なかなかハードな仕事だ。何でそんなハードなアルバイトを選んだかというと、単純に学生生活=アルバイトという構図に自分を当てはめてみたかったのと、報道カメラマンの仕事に興味があったからだ。


もともと野球というものに興味がなかったため、最初は野球自体に馴染めなかった。でも、全高校生活を野球に捧げてきた球児のプレーには心が揺り動かされた。凡打でも、必死で一塁まで走る姿勢、猛打を浴び、交代したピッチャーの背中・・・。一挙手一投足にプロ野球にはない気迫を感じた。
その中で感じたのは、観客の力だ。上位まで勝ち上がってくるチームの声援は独特で、熱がこもっている。広陵の応援団はトランペット、太鼓、その他重い楽器を演奏しながら、踊っている。興南の応援団は、エイサーのような沖縄独特のリズムで、乱舞している。やはり、応援団の力もチーム力に関わってくるのだろう。試合は選手だけがしているのではな。試合中のチームメイト、応援団の声援、試合後のマッサージ、差し入れ、激励の言葉、そういった要素が複合的に積み重なってチームの力となるのだ。


そのことは、決勝戦佐賀北広陵の試合にもあてはまる。広陵にリードされ続けた佐賀北が千載一遇のチャンスをつかんだ。二死満塁で、ホームランがでれば、逆転。バッターは大会を通して好調の3番副島。広陵のミスの少ない守備と何番でも打てる打線が、佐賀北を圧倒し、会場には、「今年は広陵か」と半ばやけくその雰囲気が蔓延しかかっていた。その中で巡ってきた佐賀北の好機。誰もがもしかしたらを望んだ。夕立のように沸く歓声と拍手。副島の一振りが予定調和を切り裂いた。嘘のように、ピンポン玉のように、白球は軽く遠く飛んだ。


この奇跡も、僕は会場の力、チームの力、運命的な引力によって起こされたのだと思う。物事は往々にして、複雑だ。メディアのように白か黒かはっきりさせる手法は時代遅れだ。そして、虚無に対して、痛みに対して、人間は無力だ。そんなこと脈絡のないことを悶々と考えていた。


さらに、毎日日記を書き続けて思うことがある。人の感情を揺さぶる文章というのは、書き手の本心、軸となっている信条が反映されている文章だと思う。その意味で、日記では、自身の本音を書き連ね、自身の軸や社会との相対的立ち位置を確立しようとしてきた。けれど、最近、日記の文章にも脚色や、自己顕示や嘘を散りばめている自分に気づいた。人の目を気にしているわけではない、強いて言うなら自分の目を気にしている。「自分はこんな人間じゃない」と。だから、日記を書いていて、自身の軸が少しずつずれていくのを感じる。島田雅彦は、著書「彼岸先生」の中で、真面目に日記をつけていると自分が輝かし人生を生きてきたように感じるのは何故だろう?と綴っている。まさにその通りだと思う。島田雅彦が提起した疑問に自分は今立ち向かっている。不可能かもしれないけれど、自分=自分の書く文章にできるだけ近づけていきたい。そうすれば、雅彦兄やんを越えられるだろうか。