コンプレックス

僕は、他の人の言動をいちいち分析してしまう癖がある。というかコンプレックスがある。誰と会話していても、その人の本心を勘繰ってしまう。だから、例え快活に話をしている人と接していても、これは雰囲気を良好に保つためにわざわざ笑い話をしているだろう、そうだとすれば、申し訳ない。とか、こんな物知り顔で話しているけど、おそらく有能さを顕示するために誇張しているだけだろう。とか、考えてしまう。さらに悪いことに、こういう風に感じていることは、話し相手の性格やこれまでの言動などを総合的に判断して、感じているわけだから、十中八九あたっている。だから、特に虚栄心が強い人や上っ面だけは良い人などと話していると、人一倍嫌悪感を抱いてしまうため、これまで、腹を割って接しようと思う人はそんなにいなかった。


かといって、僕は太宰治の「人間失格」や島田雅彦の「僕は模造人間」の主人公のように、自身をパロディー化、ピエロ化して、割り切って演じることもできないくらい臆病だ。どこかで、自分のこの特質を理解してくれる人や同調してくれる人を求めている。だから、転々と棲家を変えることも、自己の深淵に独居をこしらえることもできず、気分や少々の気合で、今時の大学生になることもあれば、内向的な学生になることもあった。ものすごく不安定だ。


このままでは、傷つくのを怖れるが故にただ人に理解してもらうのを待っている、傲慢なならず者になってしまう。人に理解して欲しければ、他人を理解し、同調せねばならない。だから、外の景色も少しは見てみようと、最近は、これまで、深淵にあった独居を街に移転してみたのだ。そうすると、意外にも、風の柔らかさや匂いを感じたり、夜の星空を見上げることができたりして心地よいのである。でも、その分リスクも高い。地上での生活では、泥棒に入られたり、悪質商法にはめられたり、台風がきたりと、家がしっかりしていなければ話にならない。けれど、僕の家はまだ草葺なのである。だから、その分壊れることが多い。そのくせ、修復は一人で手作業でしなければいけないため、時間がかかる。これは本当に大変な作業だ。深淵に帰りたくなる。


でも、転々と棲家を変える人や地下深くに家を建てている人は、雨上がりの土の匂いを感じることはできないし、家が壊れる悲しみを味合うこともない。


そう考えれば、僕は人一倍喜怒哀楽を感じることができるのだ。人間の成長はいかに喜怒哀楽について、思索し、その中から自分の哲学なり美学を見出すかだと思う。そういった意味で、僕は幸せ者なのかもしれない。家のドアや窓を全開にしておけば、どんなに強い風が吹いたって、家が吹き飛ぶことはないと思う。できるなら、そんな家をこれから建て替えて作っていきたいと思うのである。


2007年を象徴する漢字が「偽」の文字になった。社会で、食品偽装やリコール隠しなどの事件で、国民の生活の安心が揺るがされたということだろう。でも、僕は、人一倍「偽」という文字に慣れ親しみ、常に偽りとともに歩んできた。でも、本当は自分の弱い部分を誰かに理解してほしかったり、真剣に向き合ってもらうことを望んでいた。だから、偽装を恒常化していた諸社長は本当は、行った罪に悔恨し、更生する機会を得たかったんじゃないかと思うのは、僕だけだろうか。