彼岸先生

島田雅彦著「彼岸先生」を読んだ。夏目漱石著「こころ」のパロディーで、小説家の先生が、嘘つきのプロとして、誰にも本心をさらけ出すことなく、次々に女性と関係を持っていくが、やがて、膨大な量の日記を残し、狂言自殺する話。この先生の本心とは、虚無に対する理解、絶望、憧憬であり、その境地に達してしまったがために、自分をフィクションとして生きていくことを余儀なくされる。先生は、フィクションを生きる手段として、次々と女性との関係構築を行っていく。そこで、僕は違和感を感じた。本書が執筆されたのは平成四年だ。だから、当然まだ携帯電話は普及しておらず、女性とのデートの約束は、専ら公衆電話、固定電話で行われていた。それが故に、女性との関係構築は、難儀で、知性と狡猾さが必要だった。けれど、携帯電話が普及している現在ではどうだろう。女性との関係構築も過去よりは先生の狡猾さをもってすれば、平易になり、もはやその過程はフィクションではなくなってしまうのではないだろうか。だとすれば、現在のフィクションとは何なのだろうか。先生が残した手記には、自殺する間際になり、夢の中での近親相姦や架空の娘が描かれている。もはや現代のフィクションは無への回帰を意味するのだろうか。そう思うと、少し悲しくなった。


先生を慕う弟子として、学生の菊人が登場する。菊人と先生との関係は、僕と書物との関係に似ている。菊人にとって、先生は絶対的な存在だ。確立された異世界であり、それが故に好奇心を掻き立てられる。でも、同時に菊人は、その異世界を完全に理解したり、その異世界で暮らすことは到底不可能だということを認識している。僕にとって書物はそのような存在だ。先生は手記で、


「私は人生にどんな願いを抱いているのか?多くの人は人生の浮き沈みや几帳面な計画性や精神的向上を楽しみながら、人生を磨き上げるのあろう。しかし、「人生は無だった」という言葉の前にその人は堂々と開き直ることができるのだろうか?」


という一節を残している。確かにそうだ。無という言葉を前に、すべての言動は否定される。しかし、それと同時に頭では理解していても、身をもって理解していない自分を認める。僕は死を恐怖として、認識しているし、だからこそ、何かにすがっていこうとしている。それは、過去であり、未来であり、決して現在ではない。でも、いつか現在にすがっていこうと計画している。だから、フィクションを生きるのではなく、現在を生きるために僕はもう少し、頑張ってみたいのである。その結果「現在=虚無」であってもそれで納得できると思う。

彼岸先生 (新潮文庫)

彼岸先生 (新潮文庫)

足が痛い