ウンコにはウンコを

MBSの第二次選考の結果、見事に不合格でした。テレビ局の面接で、「テレビは見ません」と言ったのだから、分かってはいたけれど、正直さを買ってくれないかと消しゴムのかすぐらいの期待は抱いていた。そこで、これから方針展開しようと思う。これまでは面接で「正直さ」に勝る手法はないと豪語し、正直に話して認められたいと所望していた。けれど、これからは目には目をウンコにはウンコをメソッドを適用することにする。


この手法は、コスト削減、効率化の名の下に、面接を簡潔化している会社、つまりウンコを投げてくる会社に対して、「結局は人間の表層的な所しか見ていないにもかかわらず、人を選別するんじゃねぇよ」とウンコを投げ返す、つまり、自分を面接官が求める人材に成りすまし、会話するというものである。
つまり、外見は、面接に受かるため、就職活動のノウハウ本を熟読し、気に入られようと懸命になっている学生と何ら変わらないが、その実、内心では、「俺は意図的に演じてるんだよ」と他の学生をも嘲笑する胡散臭い手法でもある。


しかし、この手法を敢行するにあたり、どうせなら超特大で臭いウンコを投げてやりたいと思うのである。というか、これを契機に、このメソッドを習慣として、定着させてみたいと所望しているのである。このメソッドを完璧に実行しているのが、作家の島田雅彦氏である。彼は、胡散臭さをテーマに小説を書いており、さらにその小説を俯瞰してみると、一部の表現が胡散臭かったり、時代設定が胡散臭かったり、何から何まで胡散臭いのである。さらに、自身が開設するブログでは、恩師である作家が亡くなったことさえも、胡散臭さのネタにするほど、その徹底ぶりは圧巻である。これは、冷徹と捉えられるかもしれないが、逆にその胡散臭さが島田氏の特徴であり、作家という職業の特質を考えたときに、誰よりも、職業に忠実であるとも思う。作家とは、職人であり、物事を見て、考えて、文章にするという所作のプロである。つまり、それは、日常から離脱することを不可能にすることを意味する。いつ、どんなときでも、考え続けなければならない。自身が与えたテーマについて、徹底的に考察しなければいけない。その考察の対象が島田雅彦の場合、自分自身であるのだと僕は思う。だから、彼は考察の対象としての自分を演じ続けなければいけないのだ。


ということもあって、自分もウンコにはウンコをメソッドを極めたときに、文学的な価値は派生するのかどうかというのを知ってみたいし、挑戦してみたいと思うのである。僕の周りの文学的な考察が好きな面々はこのメソッドを適用している人が多い気がする。だから、今日から日常的にこのメソッドを適用して、面接にも望みたいと思うのである。