スーツとセーター

ふと思い立ったのだが、最近2種類の服しか着ていない。常にスーツかセーターだ。就職活動で街に出ているときは、スーツで、それ以外は、セーター。僕は意外とこのストレートとチェンジアップの関係が好きだ。普段スーツで窮屈な思いをしている分、セーターになった時に余計に脱力感を感じられる。あらゆる筋肉と関節が弛緩する心地だ。
そうなのだ、もはやファッションとは僕にとって、窮屈かそれともゆとりがあるかの違いなのだ。最近その傾向は顕著になってきた。大学1年の頃に割りと小奇麗にしてネックレスなんかもつけていた時分に、サークルの先輩に言われたことが今なら重々理解できる。その先輩は僕のネックレスを掴んでこう言った。

「何でこんなんつけてるん?」

僕は、あまりに唐突で、突拍子もない質問にどぎまぎして「綺麗にしてた方が何かといいじゃないっすか」と適当に返答した。その時先輩は、寝起きのパジャマで梅田に出てきていた。僕は、内心、寝起きのパジャマで梅田に来ることこそ「何で?」と思っていたが、今なら先輩の気持ちが分かる。僕もパジャマで梅田に行きたい。そして、ちゃらちゃらしたネックレスをつける意味が分からない。そうなのだ、気づいたのだ。ファッションとは、一面的な意味合いの見せ方であり、見られ方であるのだ。小奇麗に着飾っている人は、小奇麗な性格からか、小奇麗に見られたいという願望からそのようなファッションをするのだ。その結果、周囲からは、小奇麗な人だとか、お洒落な人だとか思われるのだ。そして、それはそれ以上でもそれ以下でもないのだ。だから、ファッションのみで、すべてを表現するのは、至難のわざなのだ。一方、人の内面は複雑で、幾多の因果が絡み合って構成されている。一人の人と1時間話しただけで、その人のすべてを分かろうとするのは到底不可能だ。ここまで論理を展開して僕は確信した。そのような一面的な表現しかできないファッションで一喜一憂するのは損だ。そんな一面的な所しか見られないままモテたとしてもそれは本当のモテたではない。それなら内面を磨いた方が良いと。だから、僕は2年の中頃にそのことに気づき、それ以来服を買うのをパタリと止めてしまった。最近服を買ったのは・・・。思い出せない。でも、なるべく良い生地で長く着れるものというのが、現在の選択基準となっている。


しかし、同時に弊害もある。このような偏屈な論理が僕の脳を占領し始めてから、過剰なほどに、カッコつけることに敏感になるようになってしまった。例えば、煙草を吸うときに、「さりげなく煙草をふかして佇む孤高な俺」(おそれく喫煙者の8割は煙草を吸うときに例え一瞬でも意識している)をどうすれば演出せずにすむかということにいちいち悩んだりするようになった。今のところこの悩みの答えはでていない。


でも、もし余裕があれば、内面の一部分を周囲の人に周知するためのファッションをしてみたいのである。何故なら、それでモテることは本当の意味でモテる人だからだ。


でも、僕がもしそのような正当な自己顕示ファッションをしたとすれば、きっとジーパンに何とか上半身をねじ込み、セーターに下半身をねじ込む、偏屈なファッションになるに違いない。