続・減災・被災地の現状

昨日に引き続き現地を見て感じたこと。


能登半島には2度行った。1度は、震災直後、2度目は、震災から9ヶ月後。1度目の訪問の時は、やはり、悲惨な状況だった。街では、雨漏りを防ぐため、ブルーシートのかかった家々が軒を連ねている。歩いてみると、柱が傾き、今にも倒れ掛かりそうな家。全壊に近く既に取り壊しを始めている家。ひび割れているアスファルト。震災の脅威を目の当たりにした。避難所でも、沈痛な面持ちで嘆きを漏らす被災者。ただうなずくしかなかった。
1度目は、震災に対して人は無力であり、自分自身も被災者に対して無力であることを痛感した。何とも衝撃的な体験だった。


2度目は、被災から9か月ということもあり、被災者は、仮設住宅に入居されていらっしゃった。輪島市の仮説住宅におじゃまさせていただいたのだが、集会所で行う足湯までの時間に一人の入居者の方と雑談した。その方は、輪島の漆器を代々営まれている家庭だったので、中学を卒業してその家業を引き継いだ。最近では、滅法振るわなくなったそうだが、輪島の漆器は世界一だそうだ。湿度や水や土など様々な環境が輪島市が一番適しているという。日本の英語ジャパンは実は漆器を意味するんだとおっしゃっていた。しかし、その代々繁栄させてきた漆器の蔵が今回の震災で駄目になったという。総額1億円だそうだ。現在の生活も、仮説暮らしということで、隣人に迷惑をかけないようにひっそりと暮らしているという。あまり体を動かさなくなったため、体調も崩しがちで、やはり、仮説に暮らせることや様々なボランテイィアの方来てくれるのには感謝しているが、不満はあるという。しかし、負い目を感じるため、その不満もなかなか言い出せないそうだ。

僕は、改めて地震の恐ろしさを認識した。一瞬にして、今まで積み上げてきたものが無くなるのだから。そして、それを受け入れなくてはならない。資産も算段もないなかで、でも前向きにやっていかなくてはならない。厳しい現状だ。できるかぎりの助けはしたいと思うのである。この方の話を伺っていて、仮設住宅の暮らしというのはどうなんだろうと思う。仮設住宅は一事しのぎの意味合いが大きい。とりあえず、雨露しのげればよいという目的で建設されている。しかし、被災者が2年間住むという前提では、あまりにも厳しい環境ではないだろうか。復興住宅の建設を早くする、仮設住宅の設備を良くするなど、様々な国の援助が必要なのではないだろうか。


その後は、被災者で、仮設住宅の責任者の方とお話した。その方は、孤独死を防ぐために、毎日定刻に、仮設の全世帯を見回りしているという。晩飯前のおかずをおすそ分けしてもらったりして、楽しみながらやっているという。その中で、急に体調が悪化した人がいた時に迅速に対応できたなど、様々な効果があったという。さらに、その方は、中越地震被災地や中越沖地震被災地を訪問し、地元のポスターを交換し合い、復興したら被災者同士が交流しましょうという約束を取り付けたという。このように被災者同士のネットワーク、助け合いも大事だとおっしゃった。そして、僕に山古志村のお茶を出してくださった。

このように、被災者が被災者を勇気付ける、助け合うとい動きは本当に素晴らしいと思う。やはり、僕らのような外部の目線からは、わからないことがわかるのだから。


午後から始まった足湯は、大盛況だった。みんなが待ち構えていたように足湯にやってきた。しかし、やってきたのは、女性の方ばかりで、僕は少し男性陣はどうしているのだろうと疑問に思った。女性の方は楽しげに談笑していたのだが、僕達マスコミが取材しているのを見て、「こんなんされたって何にもよくならん」とおっしゃった。僕は動揺した。確かに僕がやっている学生新聞が報じたところでよくならないだろう。しかし、一般紙の場合はどうなのだろうか。報じることで、このような活動が波及したり、被災地の実状を知った人々からの支援が生まれるのではないだろうか。よく新聞では、新聞をきっかけに繋がった2人が感動の再開をしたという記事が掲載されている。だから、僕は新聞の力を信じたい。でも、本当のところはどうなんだろう。


このように、1度目はあまりの自分の無力さに打ちひしがれ、2度目は、疑問点や伝えたいという思いが芽生えた訪問だったと思う。