斜め

東京に行ったり行かんかったり、面接ドタキャンしたりせんかったり、「あと30分寝ても5分で準備をしたら、ギリギリやけど、面接に間に合うな、よし寝よう」と、5分で準備ができるわけがないという矛盾を、意図的に無視して睡眠欲を満たしたりとかして、もうすぐ3月が終わる。思えば、仕事とか1年後を想定した長期的な自己実現欲求と、カレーが食べたいとか、とにかく眠りたいとか、1日や1時間を想定した短期的な自己実現欲求の狭間で、ウォンウォンうなる3月だった。


中島らもは、歴史に対して垂直に生きていた、つまり、短期的な自己実現の欲求を満たし続けていたのだが、どうも、僕は、歴史に対して斜めに生きたいみたいだ。今も大事だし、未来も大事だ。らもは、おそろしく理性的であったと思う。今が享楽的であれば、その積み重ねは、疑うことなく、享楽的であり続ける。そういう論理であれば、らも的な生き方が理想だ。しかし、僕は、少し世俗的であったり、少し世間体が気になったり、少し権利欲があったりする。だから、垂直に生きることを羨望しつつ、結果的に斜めになるのだ。まあ、社会に対して斜に構えてるという意味でも。


今日本屋で、ホスピタル・クラウンの本を立ち読みした。病院で活躍する道化師のことを言うらしい。道化師は、病気の児童から笑いをとることの素晴らしさをいかにも現実的な口調で綴っていた。「児童が笑顔になったとしても、それで児童の病気が治るわけでもない。でも、たとえ、1分でも2分でも、児童が笑ってる間は病気のことを忘れていると考えるとうれしい」と。まさに、その通りだと思う。でも、それと同時に道化師が本心を語るのはいかがなものかと訝ってしまった。僕が、もし道化師ならば、徹底した道化師を演じるため、芸を習得するための苦労や児童が笑顔になった時の喜びは語らない気がする。道化師は、芸が全てだ。笑いを共有することが全てだ。だから、芸以外に何かを表現する場は必要ないという見地に立つと思う。


そこまで、考えて、これはまた、理性一辺倒の理想論であることを自認する。仮に僕が道化師であったとしても、本の出版というおいしい話が来れば、間違いなく便乗すると思う。特に金に困っている時ほど。

とにかく、この斜めの生きかた、思考は、おそろしく曖昧だ。主義主張が二転三転する。本当に不便だ。とほほ。