一考察

4月から大学をとりあえず卒業して、新聞社の就職試験を受けている。いわゆるフリーターというやつだ。大学院に進学する人、就職する人を尻目に一人停滞している感が否めない。
けれど、働くということに対してゆとりを持って考える機会にはなる。
働くということは、仕事をしてその対価として給与を受け取るということである。だから、特にサラリーマンなんかはやりたくない気持ちを我慢して、でも仕事だからと割り切って働いている人も多いと思う。というのも、一企業人として、働くということはそれはすなわち、会社のために働くということであるから、個人の意欲、意志とは関係なしに、やらなければいけないことをやらなければならないからなのだと思う。
では、何故、そのやりたくもないことをやらなければならないのか。それは、端的には生活していくためではないだろうか。働いてその対価として給料を貰い、まず自立した生活を送らなければならない。また、結婚や子どもができることによって、家族を養うためにも働かなければならない。そして、その自立した生活を送るために一番の簡単な方法が、サラリーマンとして企業に雇ってもらうということであると思う。そして、就活生にとって、ただ会社で働ければよいというのでは、あまりに味気ないので、やりたいことや好きなことに近いことができる仕事を血眼になって探すというのが、現代の就職活動の現状である。また、最近は不況で、就職氷河期の到来と言われているが、そういった状況を鑑みると、やりがいや好きなことよりも生活のために働くという意味合いが大きくなってきている気がする。
そう考えると、論理的には、最低限自立した生活を送ることができるならば、就職活動をわざわざしなくても良いということになる。個人の心情としては、就職して働いている人や町でスーツを着て歩いている人なんかを見て単純に羨ましいと思ってしまう。自身の不安定な境遇から一歩でも踏み出したいと思っているからである。しかし、上述した考察によると、働くということは、必ずしも華々しいことではないということがわかる。実際、去年就職した先輩は学生が一番だと言っていた。そういったことを考えると、やはり自身のやりたいことができる就職が一番なのではないかと思う。やりたいことをやれる比率が高いならば、ただ生活を維持するということ以上に享受できることが大きいと思う。特に新聞社であれば、様々な人と接して多くのことを学べるであろうし、文章力もつく。そういった意味で、やらなければいけないという嫌悪感よりも、やらなければいけない中で学べることの方が大きいと思う。
極論を言えば、フリーターであっても生活していこうと思えばしていける。だから、新聞社に就職するということは、さらなる成長を見越した選択であるのだ。そう考えると、何となく大学院に行っている人や、そこしか就職が決まらなかったからといって働いている人よりも、自分は安きに流されずしっかりとした意志を持っている。劣等感なんて感じる必要はないのだ。