あてにされることの報酬と犠牲について

最近は、個人的な研究ではなく、教授主導のもとの研究もぼちぼち始まり、そちらの準備もしている。教授からは、やる気があると思われているのか、頻繁に激励される。誰かにあてにされることの少ない学生生活で、教授からあてにされたことに愉悦したのも束の間、疑惑。これは、信頼か、はたまた策略か。

あてにされることは、2つの側面を持ち合わせていると思う。あてにする対象が、窮地を救うに足り、かつ信頼できる対象であるが故の、依存。他方は、対象が、鈍感であり、かつやっつけ仕事をやっつけるには十分な知性を保持しているが故の、駒。

誰かにあてにされるということは、損得なしで考えるなら、無条件にうれしいことだ。
しかし、苦難の末、やっとのことで佳境に差し掛かったRPGで、わざわざラスボスを倒してくれと頼むお人よしも数少ないだろう、せいぜいはぐれメタルを倒して、レベルを上げてくれと依頼するぐらいではないか。ゲームの達人ならまだしも。

幸い、コントローラーを握った自分は、まだ敵には遭遇していない。やっつけ仕事をやっつけるだけでは物足りない。もし、はぐれメタルに遭遇したならば、はぐれメタルよりも速く逃げてやろう。
それよりも、自分のRPGを早く攻略したい。