初めはこの木にいたんだろうけど,本当の初めは,そもそも全てが未知なわけで,周りを見ると木が近くに一本生えているのだから,行ってみないことはない.

行ってみたら行ってみたで何もないのかと思いきや,雨が降れば,打たれ,晴れたならば,日焼け.もっぱら嫌になって元に戻ろうとして,パチン.

そもそも本当の初めから木にいたわけで,やってきた所もまた木なのである.首を前後にふって見やると,初めの木には,そこかしこに葉,とその群集.やってきた木には,欠落.

雨は元の木,晴れは痩せた木,これで安泰,何て都合よくいかず,右往左往.

さすがに嫌になって,木片かき集め,図画工作.

半分はふさふさ,もう半分はすかすかの木,これで安住.何て都合よくいかず,次は退屈.

枝ぬけて,架空の原点回帰,葉が落ちて,想像の社会復帰.されども修復するたびに,肥大する虚構の快感.

袋小路の夕暮れ,恐怖の明日.

あてにされることの報酬と犠牲について

最近は、個人的な研究ではなく、教授主導のもとの研究もぼちぼち始まり、そちらの準備もしている。教授からは、やる気があると思われているのか、頻繁に激励される。誰かにあてにされることの少ない学生生活で、教授からあてにされたことに愉悦したのも束の間、疑惑。これは、信頼か、はたまた策略か。

あてにされることは、2つの側面を持ち合わせていると思う。あてにする対象が、窮地を救うに足り、かつ信頼できる対象であるが故の、依存。他方は、対象が、鈍感であり、かつやっつけ仕事をやっつけるには十分な知性を保持しているが故の、駒。

誰かにあてにされるということは、損得なしで考えるなら、無条件にうれしいことだ。
しかし、苦難の末、やっとのことで佳境に差し掛かったRPGで、わざわざラスボスを倒してくれと頼むお人よしも数少ないだろう、せいぜいはぐれメタルを倒して、レベルを上げてくれと依頼するぐらいではないか。ゲームの達人ならまだしも。

幸い、コントローラーを握った自分は、まだ敵には遭遇していない。やっつけ仕事をやっつけるだけでは物足りない。もし、はぐれメタルに遭遇したならば、はぐれメタルよりも速く逃げてやろう。
それよりも、自分のRPGを早く攻略したい。

走ることについて語るとき僕が語ること

を読むと,己の軟弱さと正座して向かい合わずにはいられない.なんならお茶菓子でも出しましょかと,その場から一時退避することも許されない.
勤勉でないことが軟弱なのではなくて,己が一度決めたことを,何やかんや言い訳をして,実行しない軟弱さのことである.

例えば,毎日,腕立て,腹筋,背筋を100回ずつするぞ,なんて誓いをたてといて,初日の腕立て30回目ぐらいで諦めたこととか.あろうことか,実質100回ぐらいの価値のある腕立てやったわ,何て屁理屈をこねて自分を納得させていたことなんて,切腹ものである.

そんな細かいことから大きなことまで,あらゆることを有言実行することは不可能だ.だが,少なくとも村上春樹は,かなりの高確率で,有言実行しているはずである.フルマラソンで最後まで歩かないと決めたら,歩かない.一ヶ月に走ると決めた距離を一ヶ月で走りきる・・・.

少なくとも彼の実生活で,一貫していることは,自分を大きくみせようとしたりしないことである.自分ができるギリギリのところを見極めて,それを実行する.マラソンにおいても,小説においても.だから,フルマラソンで特別に速いタイムで完走していなくても,彼のフルマラソンに臨む態度,過程は,他の人とは少し違う特別なものとなり,ストーリーとなる.その少し違う特別なものに,自分は惹かれずにはいられなかった.

自分を大きくみせようとしない,そんな人生を送りたいものです.

走ることについて語るときに僕の語ること

走ることについて語るときに僕の語ること

腹8分目

10月は思いのほか急ぎ足で、自分に課したタスクとか、バイトとか、教授に与えられた仕事とか、睡眠時間とか、いろいろ食べ過ぎて、消化不良の自分は、完全に千鳥足。気がついたら、10月は折り返し地点を過ぎていた。このままでは、時間に置き去りにされる・・・。

勝負をかけるレース前には、できるだけ身軽にしておくのは鉄則ですね。

今日は、京都嵐山に行ってきた。嵐山の秋の華は、まだ青くて、開花しきれていなかったが、もう少し東側では、お馬さんたちの秋の華が、綺麗に舞っていたことでしょう。寝坊してウインズに行けず、馬券を買うことはできなかったが、注目していたレッドディザイアが勝ちました。14キロ絞ってきた馬は、軽やかに2千メートルの芝生を駆けました。

勝負をかけるレース前には、できるだけ身軽にしておくのは鉄則ですね。


嵐山には、家族連れがたくさんいました。はしゃぐ子どもが怪我しないように、親は片時も子どもから目を離していませんでした。

あと、数年後したら自分もあんな風になるのかなぁと思うと、少し焦燥感を覚えた。何かを成し遂げるために残された時間、自分にかける時間は、もう少ししかないのではないか。まだ、身軽なうちに全力疾走しておかなければ。

カイジ

今日は,自分に迎合した一日を送ってしまった.勉強とか,研究とかしてるふりして,その実全然集中できていない状態.
自分を客観視する自分に媚を売る体たらくなジブン.

最近は,一日のリズムを作るために,毎朝の日課,研究する時間帯とその内容,バイトなどなど比較的細かなタイムスケジュールを作って,その通りに行動していたが,今日は,思春期の中学生みたいに,型はできているけれど,中身が伴っていない一日やった.

心もしくは体が完全についていってないねんな,原因は,タイムスケジュールに余裕がないか,もしくは心身に異常をきたしているか.

答えははっきりしていて後者の方.夜中にカイジにはまって,睡眠不足.

こんな日は,ビールを飲んで,カイジを読んでさっさと寝よう.

寝れない方に1000円.

電脳ってうさんくさい言葉

ウォッカ,2位,
豊,うつむき,
俺,もっか,2連敗.


今季,馬券あたる気配なし.やはり3連単狙いは厳しいか.
秋の秋刀魚はおいしくても,紙の上の3馬は,ほろ苦い.

あっけなく,ゴミくずとなる馬券.遠方に住む友人と根拠もないのに「またいつか」と言って別れる瞬間ぐらいあっけない.

ああ,私情をはさむ余地が欲しい.

4.25ネットワークら、真相解明へ向け集会開催

JR福知山線尼崎脱線事故から4月25日で4年を迎えた。被害者の遺族らが形成する4.25ネットワークらは、25日、兵庫県尼崎市総合文化センターで「追悼と安全のつどい2009」を開いた。飛行機事故などに詳しい作家の柳田邦男氏らが招かれ、柳田氏は、「ミスを問うのではなく、何故ミスが起こり、何故防げなかったのか、ミスの本質を問う」必要性を主張した。【4月25日】

追悼と安全のつどいの冒頭では、4.25ネットワーク世話人の浅野弥三一さんが事故の真相解明の必要性を訴えた。さらに、真相解明のために、遺族の代表者、JR西日本の関係者、有識者で「尼崎脱線事故検証委員会」を設置し、事故の原因を科学的に分析し、組織的・構造的問題の所在と課題を明らかにすることを提案した。

柳田氏は、「航空機、鉄道の事故は様々な人が絡み合い発生する。構造的な真相を明らかにすることが重要。そのためにも、刑事責任追及を置き、オープンな議論ができる環境が必要である」と話し、どうすれば怪我人が減るのかなど、被害者の視点をいかしていくことの重要性を説いた。さらに、被害者、JR西日本職員の心のケア、PTSD(心的外傷後ストレス障害)のケアなど、事故当事者らの心の問題にも課題があることを指摘した。

【取材後記】航空機や鉄道などの事故には、単なる運転手のミスではなく、企業の組織的、構造的問題があることを知った。そして、遺族らが追及するのは、補償ではなく、組織的・構造的な問題の改善であることも知った。しかし、企業側は、組織的・構造的な問題を認めることに二の足を踏んでいる。刑事責任を追及される恐れがあるからだろうか。柳田氏の言うように事故の原因をオープンに議論できる場、環境が必要なのだろう。そういった意味でも「尼崎脱線事故検証委員会」の意義は大きいのではないだろうか。